PLANTING SEEDS 
「種をまくということ」
スリ・ワルヨ



時々立ち止まり、遠くをながめることは大切です。神の国は私達の努力の及ばないものだけでなく、私達の想像力をも超えるものです。私達はただ、主のみわざという素晴らしい計画のほんのかけらしか、人生のうちに達成することができません。わたしたちの行うことに完全はありません。言いかえれば、神の国はいつも私達を超えてあります。どんな説教もすべてを言い尽くすわけではありません。どんな祈りも信仰をすべて言い表すわけではありません。司牧もすみずみまでゆきわたるわけではありません。どんな計画も教会の宣教をすべて達成するわけではありません。どんな目標も

目的も、すべてを含めるわけにはいきません。これは私達なのです。いつか芽のでる「種」をまくのです。あるいはすでにまかれたものに水をやるのです。それが将来必ず大きくなるのだと願ながら。あるいは将来のための小さな土台をすえるのです。あるいはまた、パンのふくらし粉(こ)をいれるのです。そしてそれは私達の能力や努力にかかわらずふくらんでいくのです。私達はすべてを行うことはできません。でもそのことを知ることがわたしたちの限界を解き放ってくれるのです。そして行動に移ることを可能にし、しかも安心してやっていくことができるのです。もしかしたら未完成に終わるかもしれない。けれどもこれが始まりであり、最初の一歩であり、また主の恵みを受け入れ、私達の手に負えない部分をお任せることでもあるのです。私達は結果を見ずに終わってしまうかもしれません。でも、それが棟梁と単なる大工とのちがいです。私達は雇われ大工であって偉大な棟梁ではありません。奉仕者であって救い主ではないのです。私達は未来への預言者です。でもその未来は私達のものではなく、神のものなのです。