(復活節)


あなたがたに平和!

 「謝ってすむことと、すまないことがある」
 「ごめんなさいですめば、警察はいらない」
 胸を刺されるこうした言葉を浴びせられる危機は長い人生のなかでもめったにない。
 イエスの弟子たちは先生が十字架で処刑される段になると、われ先に逃げだした。師と仰ぎ、三年もの間寝食を共にして親しく教えを受けたそのイエスを、彼らは土壇場で見限ってしまった。人から言われるまでもなく、自分でも痛感する。裏切ってしまったというこの現実を……。この時の弟子たちには、文頭の言葉が痛烈に胸を突き刺したに違いない。
 「自分たちも捕縛されるかもしれない」「イエスのように十字架刑に処されるのではないか」


 こうした恐怖感が、師を裏切るという行為に弟子たちを走らせたのだろう。日を追うごとに、彼らの心は師を裏切った罪悪感、申し訳なさにさいなまれていったに違いない。ふがいなさ、弱さ、みっともなさに身を揉(も)み涙しただろう。あれほど世話をいただいたというのに……。思いだされるのは、生前のイエスの穏やかな笑み、愛情と慈しみに満ちた言葉、しぐさの数々、そして食卓を共に囲むたびに、温かく満たされた自分たちの心……。
 いつの世でも、裏切り者への報酬は、恨み、呪(のろ)い、仕返しである。今弟子たちの心を脅かすのは、ユダヤ宗教当局が放つ追っ手ではない。むしろ、師を裏切ってしまったこのふがいなさ、情けなさ、さらにイエスが放つであろう怒りと呪いであった。
 そんな彼らの前に、よみがえりのイエスは現れる。園丁の姿で、湖畔を散策する姿で、現れる。そのたび、イエスは、ふつう一般の裏切られた者の姿とは異質である。「あなたがたに平和!」と親しくあいさつする。だれがおののかずにおられようか。それはまず、死んだ人がまだ生きていることへの驚きではなかった。裏切られた者が裏切った者をゆるす現実、裁かずにいる現実、呵責(かしゃく)の無念さや、おのれの愚かさに泣く者にやさしく対応する人がいるという現実、こういう言葉を差し出す人がいる現実への、驚愕(がく)であった。
 「あなたがたに平和があるように!」彼らにはこれ以上に喜ばしく、同時に恐ろしい言葉はなかったであろう。
 目の前のイエスは、手も足もまなざしまでも、あのイエスその方であった。生前、自分たちをいたわり、貧しさや、自分の弱さにあえぎ泣く人々にやさしかったイエスが眼前にいる。
 「ここに何か食べる物があるか」イエスの口からはとっぴな要求が飛び出す。彼らには瞬時に悟った。これがよみがえりのイエスだと。
 「さあ、かつてのように食卓を囲み、一緒に食べて、楽しもう。また一緒に進むことにしよう。安心しなさい。あなたは十分に泣いたのだから……」
 こうして弟子たちの宣教活動が始まった。

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